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1986 年に名古屋で結成された劇団クセック ACT は、スペイン演劇を紹介する活動をしてきた。田尻陽一の翻訳脚本、神宮寺啓の演出でいままで にスペインの 15 作品を上演してきた。彼らの長い活動の中から、グロテスクなもの、シンボリックなもの、儀式的なものを結合させ、コロスを使い、日本の伝統演劇と狂気に満ちた前衛性を混ぜ合わせた彼ら独特のスタイルを作り上げてきた。劇団のレパートリーの中で一番名前が上がっているのがフェデリコ・ガルシア・ロルカである。すでに 6 作品を上演している。この『観客』は7 番目の作品であるが、我々をロルカの夢の世界に浸らせ、愛とあらゆるペルソナと芸術の真のアイデンティティーについて思い巡らせてくれる作品となっている。

30 年以上にわたって劇団クセック ACT は神宮寺啓の演出、田尻陽一の翻訳脚本により、黄金世紀の演劇からロルカやバリェ= インクランにいたるまで、日本語で、独特の演技スタイルで、スペイン演劇を上演するという並はずれた仕事をしてきた。田尻陽一は、劇団活動以外にも、スペイン現代演劇を日本に紹介する仕事にも手を広げ、20 世紀 21 世紀の作品を 3 巻に結実させて刊行し、近く第 4 巻を発行する予定である。さらに続刊が望まれる。

劇団クセック ACT はいままでアルマグロにたびたび招待されてきたが、今回は『観客』を持ってついにマドリードにやってきた。そして、彼らが持つエネルギー、彼ら示す芸術性の高さに、客席の観客は度肝を抜かれてしまった。

ロルカのテキストは、一見したところ不完全であり、難解であり、 何が言いたいのかはっきりせず、しかし劇的発展の中で言いたいことは制限を受け、 確固とした構造というより単なるスケッチなのかもしれないが、田尻は『観客』が目指す実現困難な高い目標をはっきりと理解している。多くの証言者が言うように、いま我々が手 にしているテキストより完璧な『観客』のテキストが存在するかどうか、分からない。決定稿としてロルカが考えたことにどこまで我々が迫ることができるかどうかも、分からない。スペイン人の読者でさえ理解不可能に近いテキストに対し、ましてや文化も言語も全く違う遥かに遠い日本にいるにもかかわらず、田尻はこの作品に挑戦する意義をよく理解している。文化的、地理的な障害があるにもかかわらず、田尻は明確なドラマトゥツルギーを持っており、この作品が表現するプロセス(これはまさしくカフカ的不条理のプロセスである)を見ている観客が発する、ナラティブで抑制されたいろいろな声のコロスを作り上げることで、登場人物たちに特性を与えている。田尻自身の言葉によれば、この作品に描かれたエンリケとゴンサロの二面性はロルカ自身を表しているという。それはまさしくベルナルダとアデラの二面性が欲望の抑圧と解放をめぐる緊張関係を示していることと同じである。ロルカはこの解放に、当時のスペイン社会の抑圧によって、近づくことができなかったのである。先ほども言ったように、演出も脚本も、コロスという登場人物に各登場人物を 描くことで、この作品の構造を緊張関係の上に確立させている。叛乱の意図があるにもかかわらず、作品の中に完全に埋もれてしまっている道徳的解放の希求を狂おしく求めることで、ブルジョア演劇の因習に埋没し抑圧された戯曲構造を超えた、自由な脚本となりうるのだ。しかし、ロルカは詩的にシュールにあらゆる手段を講じてブルジョア演劇を壊そうとしたが、最後には道徳に押しつぶされてしまい、妨害されてしまうのだ。事実『観客』は解放の物語ではなく、抑圧と裏切りと罪の物語である。と同時に、 道徳的敗北の物語でもあり、禁じられた情熱の解放からの挫折、道徳的な制約を受けない新しい演劇、つまり、砂の下の演劇を確立するには、既成の演劇では破壊することができないことを示す物語でもある。ロルカはバタイユではない。たとえ亡命できたとしても手に触れるぐらいしかできなかったであろう。彼は常に彼の気質の裏側に回り込んだ人物にとどまり、社会的認知に深く結びついたコンプレックスを抱えた作品よりも、ブニュエルが言うように、遥かに優れた善き隣人であり続けたのだ。

こういったロルカの戯曲に対し、いままでマドリードで見てきた他の上演のように、時代遅れのバカげた自然主義の上に構築された象徴主義に基づいた上演など、もう見るのは止めようではないか。田尻が言うように、レアル劇場で初演されたマウリシオ・ソテロの台本によるオペラはまさにそれであった。この戯曲に対して外形的に自由奔放に創造してこそ、この作品の上演に間近に迫ることができるのだ。レアリズム演劇でも 自然主義演劇でもない、ましてや自然主義と象徴主義を重ね合わせた演劇と全くかかわりを持たない上演が望まれるのだ。もちろん容易くスキャンダルを求める唐突なイデアリズム演劇でもない。劇団クセック ACT による上演は見事なまでの舞台空間、エネルギー、呼吸、発声、肉体演技の重要性を感じさせるものであった。役者の演技は日本演劇の伝統的な考え方に我々を導くばかりか、現代ヨーロッパ演劇が、たとえばブレヒトが影響を受けた東洋演劇にも思いをはせることにもなる。いや、東洋演劇の恩恵をうけたのは、ブレヒトだけ とは限らない。グロトフスキー、その弟子のユージェニオ・バルバから新しくはアン・ボガートや鈴木にまでいたっている。

役者で光っていたのは永野昌也である。近頃見た舞台において、愛に裏切られ犠牲となるゴンサロ役として、一番の偉大な演技であった。

奇妙な美しさを持った舞台美術、説得力に満ちた演技による舞台であった。『観客』という避けて通れないスペイン文学の古典の一つを深く読み込んだ演技だと想像できる。

ラウル・エルナンデス・ガリド

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