日本の劇団はフェルナンド・デ・ロハスのテキストを脚色することにより、劇的緊張、官能、巧みなユーモアの筆遣いを見せた
A/R 記者(シウダ・レアル発)
日本語の役者たちに眠りこむような人はいなかった。作品が懲りすぎ、演技がもたもたし、場面が次ぎ次ぎと変わり、何を言っているのかセリフが分からなくなると、芝居が絶頂に差し掛かっても、眠気に負け、観客は眠りこけてしまうものだ。しかし、今回の日本人の芝居にそういうことはありえなかった。
彼らは実にエネルギッシュでバイタリティにあふれていた。まるで冒険コミックから抜け出たようだ。とくに彼らの演技が凝固し、コロスがセリフを言うときは、まるで漫画の吹き出しを分け合っているようだった。役者たちはあたかもそれが最後のセリフであるかのように、それぞれのセリフに生きている。張り上げた声で各場面の緊張を盛りあえげていく。『ラ・セレスティーナ』の場合、コミック性の強いセリフ、楽しい音楽と踊りを挿入することで、この芝居が持っている緊迫した一本の糸に色とりどりの紙吹雪を振りまいていた。
『ラ・セレスティーナ』は、今回、アルマグロ国際古典演劇祭においてCheek by Jowl 劇団を率いてイギリスからシェイクスピアの『トロシダとクレシダ』を持ってきたDeclan Donnellan と並ぶ呼び物の1つであった。観客は、フェルナンド・デ・ロハスの表現豊かなテキストに堪能し、車椅子に乗ったセレスティーナ(「恋わずらいの母」より親愛の情がある) の奸計に感服しきった。もっともセレスティーナは、肉欲を満足させて仲間に引きずり込んだセンプロニオとパルメノによって、はした金の取り合いが原因で殺されてしまう。
8人の役者によるコロスは、声を揃えて主人公たちの思いを発声していくのだが、そのなかから次第に登場人物が現れてくる。そして各自の輪郭が整っていくと、お互いに求めあいながらも、同時に、羞恥心と社会的因習という柵によって隔てられた男と女の世界が繰り広げられていく。舞台上では、まるで絞首台に誘い込むように、もしくは銃剣で刺し抜くように、8人の役者が二手に分かれて椅子を振りかざすことで、乗り越えられない柵を表現している。
セレスティーナは障害物を取り除くため、悪知恵を働かせ、まずプルトンを呼び起こし、カリストとメリベアを結び合わせる淫水の力を借りて、まどろっこしい2人の恋心をすぐさま肉欲の虜に変えてしまう。この場でさすがだと思ったのは、肉欲に無関心なメリベアを懐柔する淫水を作り出すとき、セレスティーナの膝の上に置かれた鍋から媚薬を作る煙がフツフツと上がったことだ。実に悪魔的だった。
もう1つ驚いたことは、舞台が始まったときに役者たちが座っていた机が、初めてカリストとメリベアによるセックスシーンの場で実にエロチックなシーソーに変わったことだ。さらには、病人が癒され、愛が営まれた使い古されたベッドが、命を失った主人公たちの遺体安置所になってしまったことだ。
役者たちは全員、黒っぽい衣装を着ていたのだが、メリベアが自分の情熱の主体者になったとき、真っ赤な衣装の引き抜きとなる。そして、演劇的なコミック性はコロスによって強調されていた。彼らは漫画の登場人物のように顔をしかめたまま動かなくなったり、筋の展開に大げさな身振りで反応を示したり、あるときには顔を引きつらせて額縁から覗いたりする。この額縁は窓ともなり、センプロニオとパルメノがまず飛び降りる窓となり、次いで2人の恋人が飛び降りる窓となる。
前半部分にメタリックな音楽を採用する反面、ベニーニ監督のユーモアを思わせ陽気なイタリア音楽を挿入した神宮寺啓の演出は、創造的な冴えをうかがわせ、昨年はセルバンテスの重厚な『ヌマンシア』で観客を魅了したが、今年は『ラ・セレスティーナ』によって観客を酔わせ、熱狂させた。初日の幕が降りたあと、劇場総立ちのスタンディングオーベーションがそれを十分に証明していた。
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