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スペイン「La Vanguardia」紙 劇評

Justo Brranco記者

2024年7月7日06:00配信

7月8日20:35再配信



アルマグロ国際古典演劇祭:「神は神なり」、「ジュリアス・シーザ」、そして「一つの神話」


リュイス・オマール演出の『世界大劇場』は様々な反応を引き起こし、日本人の『セビーリャの色事師』は観客から喝采を浴び、『ジュリアス・シーザー』と『間違いの喜劇』のユーモアは観客の心をつかむ。


「善行を働け、神は神なり」と、カルデロン・デ・ラ・バルカの『世界大劇場』に登場する寓意的人物の一人は何度も何度も勧める。「これこそが天罰。かく望まれ、かくなされた」とティルソ・デ・モリーナの『セビーリャの色事師と石の客人』のなかで、寓意的な石像が言う。第47回アルマグロ国際古典演劇祭の幕開けに、この2つの戯曲が相次いで上演され、偉大な作家の力、そして何よりも存在のはかなさを思い起こさせた。「これは短いコメディアだった!」とカルデロンは書いている。これに対して、ティルソは「神の裁きはずっと後だと思う者は心するがよい。取り立ての来ない借金などあるはずはない。かくも気長に待ってくれるわと、ぬかす奴こそ空け者 」と指摘する。二人の劇作家によって、神に取り立てられる運は、かくも違うのだ。


『世界大劇場』は、さまざまな批評を集めた。アルマグロ国際古典演劇祭で初演されたこの作品は、世界は神の監視のもと、意味のない虚しさに満ちた儚い表象であるというメッセージが、ある者にとっては明確に効果的であったとしても、ある者にとっては想像力に欠け、目を見張るようなものでなかったいう演出意図の中で、はっきりと伝わってきた。国立古典劇団がカルデロンのこの偉大なしかし難解な作品に取り組むのは初めのことであるが、教義に係らざる得ない聖餐秘跡劇は哲学的にならざるを得ない。現代劇ではこういった演劇は数少ないが、わずかにピランデッロの『作家を探す6人の登場人物』や多くのメタ文学的な作品を何世紀も前に先取りした作品である。


リュイス・オマールが演出するこの作品は、14日までアルマグロで上演され、10月にはマドリッドのコメディア劇場、そしてバルセロナのロメア劇場で上演される。幕開きはいろいろなイメージから始まる。まず、テノールのアントニ・コマスが、シルクハット、杖、青いベルベットの上着、緑のロングスカートを身につけ、小さな木を背負った姿で、原初の渦巻く霧を思わせる絵の前に登場し、この短い喜劇に命を吹き込むことになる困惑した登場人物たち(王、金持ち、貧乏人、分別、美)、彼らの多くはこの世界は最終的に最後の晩餐を待っているに過ぎないことを示唆するリンボから抜け出してきたばかりなのであるが、彼らにこの世での役割を指示する。



不思議なことに、当初、観客の拍手は期待されていなかったが、公演が終わったあと、観客から拍手喝采を浴びたことは、明確な事実だ。ティルソ・デ・モリーナの作品を演じるのは……日本の劇団だ。田尻陽一が翻訳し、神宮寺啓が演出した『セビーリャの色事師と石の客人』だ。日本人とテキストとの間には、キロ単位の時空の差、何よりも文化的な距離があるにもかかわらず、名古屋の劇団クセックACTが市立劇場で上演した作品のコードを読み取るのに、10分もかからなかった。私たちは非常に特異な韻律から生まれた詩的で力強いティルソを目の当たりにしたのだ。


日本の役者たちは、話すというより、ドラ声で叫んでいる。絶えず芝居が続いているあいだ、口と目と身振りで演技し続け、1場面ごとがまるで漫画の1コマのようで、体中に緊張感が漲り、しばしば腰を下ろしてしゃがみこみ、多くのシーンでは時間を超越して移動していく。ベッドと浴槽と便器(これだけでマーラーの死を十分に思わせる)しか置いていない舞台から、常に美しい舞台造形美が生まれ出ていた。幽霊を思わせる豊かな布地は、セックスシーンまで想起させた。この誘惑、恥辱、天罰の物語は観客を魅了し、長い喝采を浴びた。

(以下は他の劇団の劇評なので省略する)

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