ロペ・デ・ベガ 作 田尻 陽一 翻訳・脚色 神宮寺 啓 構成・演出・舞台美術
■ あらすじ ■
オルメドの騎士ドン・アロンソは祭りでイネスを見て一目惚れする。恋の成就を老女ファビアに託す。ところが、イネスに恋心を持つロドリーゴという恋敵がいた。祭りの呼び物の闘牛で、落馬したロドリーゴをアロンソが助ける。ロドリーゴは屈辱から恨み、挙げ句の果てに復讐を誓う。その晩、故郷オルメドに向かうアロンソに死の影が幻のようにつきまとい、無惨にも殺される運命となる・・・!?
○名古屋公演 5月1日(水)19:30 5月2日(木)19:30 5月3日(金)15:00 5月4日(土)15:00
愛知県芸術劇場小ホール 愛知県芸術文化センターB1 名古屋市東区東桜 1-13-2 Tel 052-971-551111
○福井公演 5月10日(金)19:00
「響のホール」福井まちなか文化施設 福井市中央 1-4-13 Tel 0776-30-6677
■ 作家紹介 ■
スペイン黄金世紀の演劇を確立させたロペ・デ・ベガ(1562〜1635)は生涯に2000近い戯曲を書いたと言われているが、現存するのは400編ほど。多作家であるがゆえに、すべてが傑作とは言えない。いまでもスペインでよく上演される作品は『フエンテオベフーナ』『間抜けなお嬢さん』『ペリバニェスとオカーニャの太守』『復讐なき懲罰』『菜園の犬または意地の悪い女』、そしてこの『オルメドの騎士』である。スペイン人気質ともいえる「名誉」や「対面」が主なテーマになっている。
■ 作品について ■
メディナ・デル・カンポのお祭りから故郷のオルメドに帰ろうとした騎士が闇夜に紛れて殺された。犯人は分からない。100年ほど前に起こったこの殺人事件は民謡となり、「夜の夜中に殺された騎士、メディーナの誉れ、オルメドの華」と歌われた。この殺人事件がロペ・デ・ベガの手にかかると、美しいセリフの恋物語になる。しかし、この戯曲の始まりから死の予感がするのは、主人公が殺されることを観客は知っているからだろうか。
キャスト
榊原 忠美・永野 昌也・玉川 裕士・滝沢 瑣吉・山形 龍平 火田 詮子・平井 智子・大西 おに・安藤 鮎子・柴田 真佑・川瀬 結貴
振付
永野 昌也
舞台監督
鈴木 寛史
照明
近藤 忠光・吉戸 俊祐
音響
田中 徹
衣装
平野 美喜・ツボイヒロミ
写真
和玖 瞬
記録
中川 光宏
舞台スタッフ
海上 学彦
制作
橋本 優美・山田 吉輝
『唯一無二の存在かと問われれば…』
文筆・翻訳業 中村 設子
誤解を恐れずにいわせていただければ、クセックは奇特な演劇集団だ。劇団を結成して30年。次にどんな舞台を打ち出すか、今も創造力を駆使している。
名古屋はきわめて保守的で、ある種の堅実さを美徳とする土地柄だ。ここで公演を重ねていくのは、よほど自分たちのやりたいことが明確でないと続かない。ちやほやしてくれるマスコミもなければ、面白そうなものに食いついてくる「知の刺激」に飢えた人たちも極端に少ない。しかも組織の存在を後押しするような後ろ盾もほとんどない。
名古屋はバルセロナとほぼ同じ人口である。唐突にバルセロナをひっぱりだすのは、私自身が社会人類学の調査のために長期で滞在してきた都市だからで、どうかお許しいただきたい。
この街には文化や芸術に関わる集団が多い。私の知る限りでは、そうした集団の多くは社会的にも認知されたアソシエーションだ。公的機関から定期的に支援を得るチャンスがあり、発表の場としての祭りや広場にも恵まれている。都市そのものが芸術によって活気を得ていることを街の人びとは理解し、また芸術家たちに対して一目置いている。
バルセロナにはガウディの建築物が点在し、ミロやピカソの美術館があることでは有名だが、実はこうした草の根ともいうべき市民の芸術文化活動が根強く行われている街なのである。
芸術を育む基盤について思いを巡らせていたら、丸山健二氏の言葉を思い出した。
「もともとわが国は、高度な芸術に不向きな人びとによって構成されているのだ。経済的にはともかく、おとなになっても精神的に自立しない国民性は独創的な発想を著しく妨げる。それは画期的なひらめきを命とする芸術にとってほとんど致命的な欠陥でしかない。そんな劣悪の環境で、自分がよしとするところの作品を発表していくのは、執筆という行為そのものより、はるかにしんどいことである・・・」
わが国は…というところは、そのまま名古屋は…と置き換えられるだろう。好きで芝居をやっているのだから、といってしまえばそれまでだが、30年もこうした状況の中で続けている彼らはやはりただ者ではない。 で、クセックがどんな芝居を上演しているのか。原作の魅力はさておき、おおざっぱにいえば、演出家・神宮寺啓による誇張とデフォルメが際立つ芝居だ。パラッドクス的身体性が異形の美を醸し出す。さらには、「あなたは何者ですか?」と詰問するかのような威光が随所で放たれる。 「いえいえ、私は唯一無二の存在なんですよ、ほら、ごらんなさい、これが私なのですから…」と観客席で、なんとか応えようとする自分がいる。榊原忠美をはじめ、秀でた感性を持つ役者たちのアプローチによって、こうした、劇空間ならではの対話が生まれるのだ。 スペインが生んだ思想家のオルテガは「人間は社会的であるとともに、社会からの逃避に対する強い衝動がある」と記しているが、この衝動を私はクセックの舞台に求めている。 目の前に現れた滑稽な人物によって、どっぷりとつかっていた現実から一瞬にして引き離されてしまう。その快感。「浮遊する私」は一個の生身の人間として、どのように「生」を引き受けていくのか。理屈を超えた極めて感覚的な世界へと誘発される。 ときおり覚える、軽いめまい。困惑して、ため息が出る。人間の摩訶不思議な習性と性に震撼とし、途方にくれる…。 だがその結果、この猥雑で捉えどころのない世界を、脆弱な私が、これからも生きていってよいのだと思う。いや、生きていこうという感慨がわきあがるのだ。 オルテガは「自我は、われわれが即座に所有し認めることのできるあるものではなく、すでに一定の順序を持つ一連の経験を通じて、他の事物に負けず劣らず徐々にわれわれの前に現れてくるということである」ともいう。得体の知れない自我と戯れ、格闘するチャンスを、クセックから毎回、ひとつの経験として与えてもらっていることにも、いま気がついた。
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